伊達政宗は、戦国時代から江戸時代にかけて活躍した戦国大名。東北の覇者と知られ、陸奥仙台藩の初代藩主。右目を失明している事から、独眼竜と称される。幼名は「梵天丸」。
1567年に伊達輝宗の嫡男として出羽米沢で生まれた。18歳で家督を相続し、第17代伊達家頭首となる。1581年に初陣を飾ると、佐竹氏、最上氏、蘆名氏などと陸奥の覇権を争い戦を続ける。1589年に、会津の蘆名義広を摺上原の戦いで打ち破ると、現在の会津を中心とした福島県のほとんど、山形県南部、宮城県南部を支配下に納める。また白河氏や、岩手、宮城の大名も恭順し、陸奥を完全に勢力下に納めた。
1590年、豊臣秀吉が関東の北条征服に乗り出すと秀吉に服属を決めるが、決断に遅れ遅延した為に遅参として咎められ、会津の所領を没収される。しかし伊達家の本領72万石は安堵された。その後も、野心が消える事無く一揆誘導などの調略などを繰り返し秀吉の怒りを買うが、雄弁で秀吉の許しを得る。しかし、米沢から岩手沢58万石へ減封される。1593年の朝鮮出兵、文禄の役に従軍。活躍を見せる。行軍の際、京都であまりにも正宗の姿が派手であったために「伊達者」と呼ばれ、その語源となったと言われている。
1598年に、秀吉が没すると禁を破り家康と接近。姻戚関係を結ぶなどの同盟関係を築く。1600年の関ヶ原の戦いでは、東軍家康に付き、家康から上杉領となった旧領49万石の自力回復を認められ、上杉と戦う。しかし、戦果が上がらずに2万石程度の加増にとどまった。
1601年に本拠地を仙台城に移し、城下町を建設。仙台藩が誕生する。1614年には大阪冬の陣に従軍、夏の陣では後藤基次らと戦い壊滅させるが、真田幸村の反撃を受けて撃退されている。
戦国の時代が終わり天下泰平となると、自国の開発に力を入れた。家光までの徳川将軍3代に使え、家光の信頼の暑い補佐役となる。1636年、参勤した江戸で没する。享年70歳。
辞世の句
「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照らしてぞ行く」
墓は瑞鳳殿。
若松城(わかまつじょう)は、福島県会津にある赤磐瓦の平山城。又の名を鶴ヶ城で知られる。会津若松のシンボルで、桜の名所としても知られる。戊辰戦争最大の戦闘が行われた場所でもあり、侍社会の終焉を悲劇を持って伝えた最後の城である。国の史跡に指定されて、新撰組所縁の地として、また白虎隊など現在も人気の高い名所の1つである。建築物は全て再建の物であるが、石垣、土塁、堀は見事な姿で現存する。東北三名城の1つに数えられ、東北を代表する観光名所である。
観光情報
駐車場【有】
トイレ【有】
天守入城料金:大人500円、子供150円
入場時間:8:30~17:00 (入城は16:30まで)
アクセス
会津若松駅よりバスで鶴ヶ城まで。
500 JPY
1 hr. 30 min