種類:戦国時代 織田信長 徳川家康 合戦 浅井長政 朝倉義景
年月日:1570年7月30日
戦場:姉川周辺
攻勢勢力:織田徳川連合軍 VS 浅井朝倉連合軍
兵数:2万5千 VS 1万8千
勝者:織田徳川連合軍
姉川の戦いの経緯は、浅井長政が織田信長が朝倉義景を攻略している最中に裏切り、後背を突き退路を断った事に始まる。この戦いは金ヶ崎退き口と呼ばれ、姉川の合戦の2ヶ月前に行われた。
織田信長は、同盟国の徳川家康と共に、上洛命令に従わない越前の朝倉義景を攻略すべく越前への侵攻を開始した。越前に深く進軍している最中、突如信長の同盟者であり、義理の弟でもある浅井長政が朝倉方に寝返り、信長軍の後背を突く、退路と補給を立たれた信長軍は大混乱に陥る。信長は一目散に京都に逃げ、またしんがりを勤めた羽柴秀吉や家康の活躍で崩壊を防ぐ。
京都に無事に戻った信長は、直ぐに長政討伐軍を挙げ2万の軍勢で長政の居城小谷城に侵攻する。家康も再び駆出され、5千の兵士を引き連れて参戦する。
手勢わずか8千の長政は、義景に援軍を要請。義景は一族の将軍・朝倉景健と軍勢1万を派遣する。
7月29日には、信長軍は小谷城の支城横山城を包囲する。信長自身も竜ヶ鼻に布陣する。翌30日、早朝景健と長政は姉川の北側にそれぞれ布陣し、家康は勝山に信長は竜ヶ鼻の西に布陣する。陣形は、家康に対して景健、信長に対して長政が対戦する形にそれぞれ陣取った。信長はこの時13段に部隊を分けて布陣させた。日の出と共に、家康の部隊が姉川を渡り景健の部隊に突撃し、長政の武将・磯野員昌が姉川を越えて信長に突入した。
信長公記によれば、「火花を散らし戦ひければ、敵味方の分野は、伊勢をの海士の潜きして息つぎあへぬ風情なり」という激戦になった。倍の兵力を相手に苦戦する家康であったが、家康の猛将・榊原康政が別働隊として景健の右側面に奇襲をかけ、景健の部隊を混乱させる。また、朝倉軍最強の真柄直隆、真柄直澄、真柄隆基親子が、討死してしまう。混乱が収集できない景健はそのまま撤退してしまう。
この時、長政の軍勢は13段の信長の防御の内11段まで突破する活躍を見せた。半数の兵士相手に悪戦苦闘する信長が敗戦を意識した時、朝倉軍を打ち破った徳川軍が長政の右側面を攻撃する。突然の猛攻に堪え兼ねた長政もまた、小谷城に撤退する。
こうして、兵数の一番少なかった家康が1人で戦いに勝利をもたらし、織田・徳川連合軍の勝利に終わる。
復讐心に猛り狂う信長だが、小谷城は堅城で知られる為、この時の攻略は諦め横山城を陥落させると、羽柴秀吉を城代にし、長政を包囲し兵を引いた。
2年後、浅井・朝倉共に織田信長に滅ぼされる事になる。