年月日:1600年10月21日
主戦場:関ヶ原
交戦勢力:東軍(徳川家康) VS 西軍(豊臣勢力)
兵数:10万 VS 8万
結果:東軍の勝利
兵力図
東軍
徳川家康 30000
浅野幸長 6500
福島正則 6000
黒田長政 5400
細川忠興 5000
池田輝政 4500
井伊直政 3600
松平忠吉 3000
加藤嘉明 3000
田中吉政 3000
京極高知 3000
筒井定次 2800
藤堂高虎 2500
寺沢広高 2400
山内一豊 2000
生駒一正 1800
古田重勝 1200
金森長近 1100
有馬豊氏 900
本多忠勝 500
他
西軍
宇喜多秀家 17220
小早川秀秋 15000
毛利秀元 15000
石田三成 6900
長宗我部盛親 6600
小西行長 4000
吉川広家 3000
大谷吉治 2500
織田信高 2500
小川祐忠 2100
安国寺恵瓊 1800
島津義弘 1588
長束正家 1500
木下頼継 1000
脇坂安治 990
赤座直保 600
大谷吉継 600
朽木元綱 600
糟屋武則 360
他
前哨戦
東北方面
西軍:上杉景勝、佐竹氏
東軍:結城秀康、小笠原秀政、伊達政宗
中仙道
東軍:徳川秀忠、酒井家次、真田信之、本多正信
西軍:真田昌幸、真田信繁
関ヶ原の戦いは1600年に行われた日本史上最も大規模な会戦。天下分け目の関ヶ原とも称され、その後の日本の歴史を大きく左右した戦いであった。戦いは、徳川家康と豊臣恩顧の勢力を率いた石田三成の間で行われる。家康率いる軍勢を東軍、三成率いる軍勢を西軍とし、まさに日本を二分する戦いとなる。規模も両軍とも8万を超える軍隊どうしが激突した巨大会戦で、他に類を見ない。事の発端は、1598年、天下人豊臣秀吉が伏見城で没したことに始まる。秀吉の跡を継いだ秀頼はこの時わずか5歳で、秀吉が残した巨大な権力を扱うことは当然出来なかった。
関ヶ原の戦いは天下を狙う徳川家康の東軍と秀頼を補佐する石田三成の西軍の対決と言うイメージが定着しているが、その実は秀吉恩顧の武将の内部闘争である。秀吉には福島正則、加藤清正、黒田長政、藤堂高虎、池田輝正、伊達政宗などの武官型と、石田三成、浅野長政、増田長盛、前田玄以などの文官型である。
秀吉と弟の秀長が存命中はこういった部下の不協和音は表に出ることは無かった。しかし、秀吉の死後2つの勢力の衝突が表に浮かび上がってくる。これを、家康は巧みに利用し完全に内部分裂させてしまう。家康は秀吉より秀頼を政治的に補佐する五大老に選ばれた関東八州250万石の大大名であった。戦国時代末期、織田信長の同盟者として辛抱に辛抱を重ねその勢力を強めた大名である。当時、戦国大名で戦歴・政略共に家康の右に出る物は既に居なかった。
家康の目標は秀吉亡き後、家康自身が築く新たな体制にとって弊害となる全ての大名を一網打尽に殲滅する事が関ヶ原の戦いの目的であった。事実、前田家を除く、残りの五大老、宇喜多家、上杉家、毛利家全て、戦いの後に大幅に減封もしくは改易となる。また家康の勢力を堅固に固めた戦いとなる。
関ヶ原の戦いの前哨戦は、会津の上杉景勝によって始められる。石田三成と密かに盟約を結んだ景勝は、家康に対して挙兵する。これを家康は豊臣家に対する謀反として秀吉の兵の半分を率いて征伐に向かう。家康が殆どの兵を率いて大坂を空にした際、秀頼の名の下に三成は家康討伐の勅令を出す。毛利輝元が、その総司令官に任命され、西国の大名が従軍する。特に、四国の長宗我部、九州の島津など精強な軍勢が西軍に付いた。三成の戦略は家康を北と西から挟み撃ちする事にあった。
三成が西国の大名を集めて挙兵した事を耳にした家康は、上野の小山城で率いていた豊臣恩顧の大名の前で軍また議を開く。この時に、家康は三成に付くか、自分に付くか秀吉の武将に説いた。この時、豊臣恩顧の筆頭であった福島正則は、率先して家康について三成を討つことを誓う。この為、殆ど全ての豊臣恩顧の大名が家康側に付くことを決める。この時、勢力図は家康率いる東軍と豊臣方の西軍となる。
しかし、この時点で黒田長政などの活躍により、主戦力である小早川秀秋や毛利家の吉川広家などが既に家康に寝返る事を約束していた。特に広家は主戦力の毛利家を統率する武将であり、実際には毛利家が東軍に付いた事と同じ状態となる。小早川秀明は、秀吉の外戚の甥で関ヶ原では1万5千の兵を率いて参戦していた。総大将の毛利秀元も1万5千の兵を率いて参戦。これは宇喜多秀家に次ぐ西軍では2番目に巨大な兵力であった。
小山城で家康は自分の兵と有力な将帥を全て息子の秀忠に与え、中仙道を使わせ、自身は残りの兵と福島、池田輝正、黒田長政らを率いて東海道を使い西に向かう。中仙道では家康も予期しなかった自体が起きる。上田城に籠もった真田昌幸、信繁(幸村)親子によって足止めを受け、関ヶ原の戦いに遅参する自体となってしまう。しかし、山内一豊などの東海道の大名の呼応により家康自身は東海道を無傷で通過することになる。家康は、豊臣方の武将が自分の側に付いたか真意を問うために長期にわたり江戸城に一時滞在する。
その間、豊臣恩顧の福島正則と池田輝正は先陣として岐阜城を攻略する。9月1日に岐阜城攻略の知らせを聴くとついに家康は出陣する。大垣城に向かう東軍に対し三成率いる西軍は大垣城を占領し本営を敷く。9月14日、家康は秀忠の到着を諦めて大垣城を無視し大坂へ向かって進軍を開始する。すると、それを阻止すべく三成は兵を大垣城から撤退し、関ヶ原で東軍を迎え撃つことを決定する。
先に関ヶ原にたどり着いた西軍は関ヶ原を取り囲む様に陣を敷く。又、毛利軍は南宮山、小早川軍松尾山、そして三成自身は笹尾山とそれぞれの山頂に陣を敷き決戦時の決定戦力として配置される。
9月15日の決戦当日、関ヶ原は濃い霧に包まれていた。家康は朝早く到着すると、関ヶ原の東側にある桃配山に本陣を敷く。そして、池田、蜂須賀、山内、浅野の軍勢を後詰めとして配置する。先陣には、福島正則、黒田長政などの兵力を配置する。戦いの火蓋は福島正則によって切り落とされた。
午前8時頃、福島の軍勢が宇喜多軍への攻撃を開始すると戦闘開始の狼煙が黒田長政から上げられる。宇喜多軍は1万7千と西軍で最も巨大な兵力で、福島の他に本多、加藤、井伊の軍勢が戦う。三成の軍勢には東軍の細川軍や黒田軍が戦う。
10時頃、三成は総攻撃の狼煙を上げ、小早川軍と毛利軍の戦線参加を合図する。この時、地理的に圧倒的に有利であったはずの西軍は参戦している兵士が東軍の7万に対して、わずか3万3千と少なく苦戦を強いられていた。ここで、小早川、毛利の軍勢が加勢すれば形成は一気に逆転するはずであった。また戦国最強の島津軍も温存されていたままであった。
しかし、どの勢力も動くことは無かった。なぜなら、毛利軍は実質の指揮者である吉川広家が家康に内通していた為に毛利軍を南宮山に引き留めて陣を動かさなかった。また小早川秀秋も家康に内通を決めていた。しかし、この時秀秋はまだ決心仕切れず西軍を裏切る動きは見せられなかった。
正午過ぎ、決めきらない秀秋に業を煮やした家康は秀秋を威嚇、ついに彼も西軍を裏切る事を決意する。この時、松尾山の麓で戦っていた大谷吉継は、秀秋の裏切りをある程度予想していた為に、突撃する秀秋の軍勢を押し返す。すると、今度は長束正家、脇坂安治、赤座直保、朽木元綱が同時に東軍に寝返ると、戦線を支えきれずに大谷軍は敗退する。大谷軍と戦っていた、藤堂軍、京極軍も宇喜多軍に攻撃を開始し宇喜多軍は完全に包囲され敗走する。また西軍の小西軍も宇喜多軍に続き撃滅されてしまう。
この時点で勝敗は完全に決した。三成の勇将・島左近や蒲生は三成を逃がすために捨て身の突撃を行い三成は命からがら戦線を無事脱出する。こうして関ヶ原の戦いは1つの部隊を残して勝敗は決した。
関ヶ原の戦いの最後の頁は、島津によって彩られる。島津は、不本意ながらも西軍に従軍してしまった武将で戦争を通じて三成の島津に対する扱いには不満であった。その為、関ヶ原の戦いにおいては一切参戦しなかった。西軍が完全に敗走した時、島津義弘は始めて退却の為に軍隊を動かす。その退却の方法は過激であった。敵に背中を見せての敗走は許されないと、島津の軍勢は敵の本陣を正面突破して退却を始めた。この苛烈な退却方法は「島津の退き口」と呼ばれ、兵士が一人ずつ殿を努めて退却を支える方法であった。島津義弘が最終的に薩摩にたどり着いたときは1500の兵士はわずか80まで減らされていた。この時の戦いで井伊直政は重傷を負い、数年後死亡する。
関ヶ原の戦いはこうして終焉する。
関ヶ原の戦いの後、三成の居城佐和山城は小早川秀秋に攻め落とされる。三成は逃げ出すも9月21日には捕らえられた。他に、小西、安国寺恵瓊もほぼ同時に捕らえられた。9月27日に家康は全てを率いて大坂城に入城。秀頼からその領土の三分の二を奪い、他に京都、金山銀山も全て徴収した。
10月1日、石田三成ら捕らえられた3人が京都で斬首された。この為、三成に辞世の句は無い。
戦後処理として西軍に付いた大名はことごとく領地を没収、減封させられた。
毛利家は120万石から周防長門36万石へ。上杉景勝は会津120万石から米沢30万石へ。佐竹は常陸83万石から、出羽20万石へ。それぞれ減封させられた。しかし、島津だけは薩摩の地から一切の減封は行われなかった。
(参照:オフィシャル案内現地観光情報等)