天守:現存天守
城郭の種類:山城
天守構造:2重2階 複合式望楼型
築城年:1240年
築城主:秋庭重信
標高430mの臥牛山山頂付近に建つ、現存天守の1つ。1240年に秋庭重信によって大松山に築かれた城が起源である。現在の遺構は1683年に水谷勝宗によって3年かけて修築された物である。山陽と山陰を結ぶ要所の1つとして戦国時代より激しく争奪戦が繰り広げられた城である。その為、歴代城主は変遷し続ける。切り立った岸壁の上にあり難攻不落の城としてその名を知られた。
戦国時代には、三村元親が城主となり、大規模な城郭へと増築する。しかし、元親は毛利氏から離反し織田信長に寝返ったが、小早川隆景によって討ち滅ぼされ、毛利氏の領有となる。
江戸時代に入ってからも城主は変わり続ける。1642年に水谷勝隆が入封。2代目勝宗が1681年から修築を行い現在の姿となる。
最終的には板倉氏が江戸時代の終わりまで城主として治めた。
現存する天守は、1600年に作られた物に、1681年に勝宗が造営したとされる。2層2階で、西面に半地下の附櫓がある複合式望楼型天守である。
(参照:オフィシャル案内現地観光情報等)