豊臣秀長(1540年~1591年)
豊臣秀長は、戦国時代の大名。大和100万石を有した大大名で、最後の官位が大納言であった為に、大和大納言とも呼ばれている。
秀長は豊臣秀吉の弟として生まれ、生涯彼の所行を支え続けた。秀吉の配下として何時から加わったかは不明であるが、農民の出生という秀吉の立場から考えると、秀吉と寧々の結婚した年1564年頃に秀吉の最初の部下として加わったのではと考えられる。兄秀吉と同様に比類無い才能を発揮し、侍としてのいかなる教育も受けていない状態からたった数年で立派な補佐が務まるほどに成長した。
秀吉が木下藤吉郎秀吉と名のると木下小一郎長秀と名のる。長秀は信長と秀吉から一字ずつ頂いたと考えられる。(混乱を避けるために、以降も長秀でなく秀長と表記する)
秀長の任務は主に、秀吉の留守を預かり、秀吉が信長の元で働いている間、副官として秀吉の侍を預かり統制した。秀吉の美濃攻めの際は、常に秀吉の傍らにあって偉大な兄を支え続ける。
朝倉氏浅井氏滅亡の後、長浜を与えられた秀吉は、秀長にも所領を与える。秀長のこの地で藤堂高虎を見つけ出し配下に加える。
1574年には、秀吉のの代理として長島の戦いに参戦、武功を揚げる。秀吉が中国方面軍団長と成ると、秀長は但馬を平定した。この時秀吉が黒田如水宛に当てた手紙には、秀吉の最も重要な家臣として紹介されている。秀長は竹田城を落城させると城代として治める。1578年の過激な信長包囲網の中、秀長も多くの戦いに参加し、秀吉の播磨・丹後の平定に協力する。1580年、別所氏を滅ぼすと秀長は
出石城の城主となる。
1582年に織田信長が本能寺の変で討たれると、秀吉の副将として山崎の戦いに参戦。兵力の大部分を秀吉が明智光秀との戦いにさかれ、秀長は黒田如水と共にわずかな兵をもって天王山を守備し、毛利軍を抑えた。
1583年には賤ヶ岳の戦いでは、長浜城を死守し、佐久間と戦う。中川清秀を失うが秀吉を勝利に導く。この軍功で但馬と播磨を秀吉から与えられ、姫路城に移る。1584年には小牧・長久手の戦いでは、秀長は織田信雄の抑えとして守山に進軍し、後秀吉の名代として説得交渉を行う。
この時期より、長秀から秀長と改名している。主が信長から秀吉に変わったからであろうか。
1585年の秀吉の紀州攻めでは秀吉の副将として全軍の半分を指揮し勝利を収めると、紀伊国、和泉国を与えられ64万石の大名となる。この時に藤堂高虎に和歌山城の築城を命じている。同年には、総大将として四国攻めを行い長宗我部元親を降し四国を平定。その功績で、大和国を加増され郡山城を与えられる。これで116万石の大大名と成る。大和は寺社勢力が強く、統治の難しい国であったが秀長は問題無く統治に成功する。
1586年に、体調を崩し始める。、本願寺顕如が使者を送るほか、金蔵院や宝光院などが湯治中に見舞いに訪れている。徳川家康が秀吉に帰順する際、秀長庭館で秀吉と密会している。
大友宗麟が秀吉を訪れて上洛の際、「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(秀長)存じ候」と述べたほど秀吉の信頼は厚かった。
1587年の秀吉の九州征伐では日向方面の総大将として出陣。耳川の戦い勝利し、島津家久の調和を行い成功させる。この武功で大納言となる。
1591年2月15日。甥で養子の秀保に跡を継がせて郡山城で没する。享年52歳。