朝倉義景(1533年~1573年)
朝倉義景は、信長のライバルとして度々信長を苦しめた戦国大名の一人。越前朝倉氏11代目当主で、1533年に生まれ、1548年に当主となる。幼少であった為に、一族の朝倉宗滴の補佐をうけて国政を行った。宋滴は朝倉孝景の八男で朝倉3代に使えた名将で、各地を転戦し朝倉氏を支えた。伝説によると、30万の一向一揆をわずか1万1千の兵士で鎮圧したと伝えられる。
1552年に、室町幕府第13代将軍・足利義輝から一字与えられ義景と名のる。1555年に宋滴が死去し、義景自ら政務を行うようになる。
1565年に、義輝の弟義昭を保護し、本拠地の一乗谷に迎え入れた。義昭の仲介で長年苦しめられた、加賀の一向一揆と和睦が成立する。義昭は義景に上洛を促すが、義景はついに上洛を行わず、織田信長を頼って義昭は一乗谷を去る。
1568年には、若狭守護の武田氏の内紛に乗じて若狭を支配に治める。しかし、この頃から、政務を放棄し、朝倉景鏡や朝倉景建に任せて遊行に耽るようになる。その間に、信長は義昭を奉じて上洛、義昭を将軍にし、義昭を通じて義景に上洛を命令するが、これを拒否する。
1570年に、信長は徳川家康と共に越前に攻め入るが、同盟国の浅井長政に裏切られ、殲滅の危機に瀕する。この後すぐに、信長は再び家康と連合を組み浅井を攻める。義景は長政の要請に従い援軍を送り、両軍は姉川で激突する。義景は出陣せず、景建に任せるが、景建敗北してしまう。
1573年に武田信玄が信長を攻めるべく西上作戦を開始し家康の城を次々と落城させる。この時、信玄に呼応した義景が羽柴秀吉に撃退されると、すぐに疲労と積雪を理由に兵士を引き上げてしまう。義景にしてみれば、信長の代わりに信玄が同じ立場に立ってしまっては意味が無いと判断したためとも考えられる。その後も、義昭は信長と完全に絶縁となるが、それでも義景は動かなかった。
同年8月、信長が3万の兵を持って近江に侵攻するが、重臣朝倉景鏡、魚住景固らが義景を見限り出兵を拒否し始める。その為義景自ら2万を率いて戦うも大敗。浅井とも分離されて孤立してしまう。この戦いで、朝倉氏を頼っていた斎藤龍興も戦死してしまう。2万の兵士が、十人程度を残して敗走してしまった事に絶望した一乗谷の将兵は大半が逃げ出してしまう。義景も一乗谷を捨て、大野の景鏡を頼って落ち延びるが、景鏡は信長と通じて裏切った為に、賢松寺にて自刃する。享年41歳。
辞世の句は、
「七転八倒 四十年中 無他無自 四大本空」
七転八倒の我が40年の人生は長く、他が為でも無く、我が為でも無かった。全ては所詮宇宙へと帰するだけである。
(参照:オフィシャル案内現地観光情報等)