堀内は旧萩城の三の丸にあたる。毛利輝元が1608年に築城し町割を行った時に始まる。藩の諸役所(御蔵元・御木屋・諸郡御用屋敷・御膳夫所・御徒士所)と、毛利一門をはじめとする大身の武家屋敷が建ち並んでいた。
北の総門
総門は、萩城三の丸(堀内)と城下町を分けるである。北の総門・中の総門・平安古の総門の3ヵ所があり、あわせて「大手三つの門」と呼ばれた。北の総門は、萩城三の丸の東側にあたり、中の総門の北に位置してることからこの名がある。
それぞれ門の側には番所が置かれ、人や荷物の出入りを監視していた。夜間、暮れの日の入りから夜明けの間は閉められてた。
旧益田家物見矢倉
益田家は、阿武郡須佐に領地を持っていた萩藩の永代家老である。幕末の当主親施は13代萩藩主毛利敬親を助け藩政革命を行ったが、1864年禁門の変の責任者として切腹させられた。高い石積の上につくられた矢倉は長さ11m、奥行約5mの平屋建てで、この矢倉の前面に広がっていた馬場の見張りに使われていたと言われる。
旧繁沢家長屋門
繁沢家は阿川毛利家の分家で萩藩寄組に属し、給領地を大津郡三隅村と阿武郡小川村などに持っていた。建物は瓦葺切妻造、桁行35.5m、梁間4.9m、中央から左寄りに門をあけてる。
旧周布家長屋
周布家は、萩藩永代家老益田家の庶流で、石見国周布郡の地頭職として周布村に住し、周布を氏としたから始まる。藩政時代は大組士の筆頭として長門市渋木に領していた。この長屋門は同家萩屋敷の表門で、平屋建本瓦葺、東西の桁行24.91m、東端から北に折れ曲がった部分の桁行11.2m、梁間3.96mの道路に沿った長い建物である。中央から東寄りの所に、2.46m幅の門を構えて開き扉を設けている。建物の外観は腰部を下見板張りとし、基礎に見事な切石積みがあり、上部は白漆喰大壁造であり。江戸中期の代表的な武家屋敷長屋の様式を残してる。
問田益田氏旧宅土塀
問田益田氏は萩藩永代家老益田家の分家筋にあたり、給領地を問田に持っていたので、こう呼ばれた。この土塀のある堀内地区は旧萩城三の丸にあたり、高い土塀を巡らし重臣たちの屋敷が建ち並んでいた所である。現在、この地域は国の重要伝統的建造物郡保存地区に選定されており、土塀が数多く残ってる。なかでも、この土塀は延長231.7mあり、往時の姿を最も良く留める。
旧毛利家別邸表門
この門は、もと毛利元徳公が鎌倉材木座に建てた別邸の表門である。