越前朝倉氏は、室町末期の15世紀から16世紀にかけて越前を支配した大名である。一乗谷は初代朝倉孝景から、義景のまでの5代100年の居城で、京都を移築したと呼ばれる程の当時最高の城下町を形成したと伝えられる。
唐門は、朝倉館跡の正面の堀に面して建つ唐破風造り屋根の門。朝倉義景の菩提寺として建てられた、松雲院の門から移築されたと伝えられる。門には、朝倉家の三ツ木瓜の門が刻まれている。江戸時代中期に建てられた門である。
朝倉館跡は、朝倉家当主が居住した館。背後の山は山城と成っており、有事には山城に籠もる様に作られている。そして残りの三方を土塁と堀で囲まれ、隅には櫓が建てられていた。台所という名前は残っているが、女性が生活していた形跡が一切残っておらず、政庁として使用されていた可能性がある。中には、日本最古の花壇跡があり、シャクナゲやボタン、キクやハギなどが植えられた事が調査の結果判明している。庭園が南側にあり、庭園を囲む様に接客用の館が建てられていた。山から水を引いて滝が作られていて、滝石が中央に配置され石橋などが敷かれていたと考えられる。
中の御殿跡は、義景館跡の南隣にある庭園。義景の母である、光徳院が居住していたと伝えられる。
湯殿跡は、一乗谷で最も古い庭園と見られる。美しく並べられた石組に水を引いて居たと考えられる。平山郁夫氏がこれほどの庭園がまだ日本に在ったかと絶賛した庭園で、この庭園には歴史が在ると称した。
南陽寺跡庭園は、朝倉氏景の妻が建立し、三代目貞景が再建した寺である。1568年に、逃れてきた足利義昭を招いて宴、歌会が催された庭園で、義昭と義景の歌の碑建てられている。
「もろともに月も忘るな糸桜 年の緒長き契と思はゞ」義秋
「君が代の時にあひあふ糸桜 いともかしこきけふのことの葉」義景
諏訪館跡庭園は、朝倉義景の側室、小少将のために建てたと伝えられる館。上下二段の回遊式庭園で、高さ4.13m、幅2.5mの日本最大の滝福石を使った滝石組がある。一乗谷で最も規模が大きい庭園で、当時の様子を良く残している。
一乗谷の南端には、製鉄所とガラス工房が在ったことが調査で判明する。ここにガラス工房が在ったことが判明した事により、当時日本に存在したガラスは輸入品だけでなく、国内でも生産する能力が在ったことが判明する。この事からも、一乗谷は高い技術も有する城下町であった事が分かる。
朝倉孝景は越前朝倉氏の7代目の当主で、拠点を一乗谷に移し1万人と言う、当時最大級の城下町を形成した。孝景は戦国初期の英雄の一人で、1428年に生まれた。朝倉氏は越前守護・斯波氏の重臣で在った。1458年に起きた、越前守護と越前守護代の戦いでは守護代側に付き活躍し勝利に導くと地位を固める。
応仁の乱で主家、斯波義廉共に西軍に参加し、西軍を苦しめた。その後、東軍に寝返る。苦戦を重ねるが最終的に越前国を掌中に収め、守護に任じられた。
(参照:オフィシャル案内現地観光情報等)