井澤家は、1851年高遠藩へ提出した帳簿によれば、持高41石余で、藩内でも屈指の豪農として知られ、代々造り酒屋を営んでいた。2代井澤要右衛門が1782年に酒造販売を創業し、三代目の頃には藩財政を支援するほどに栄えていた。そのため、名字帯刀を許された。
伊那街道と伊那部宿
伊那部宿は伊那街道の中で飯田城下と塩尻宿の中間に位置し、ここより高遠を経て甲州街道へ、又権兵衛峠を越えて中仙道へ通じる交通の要所であった。町並みの所見は1591年と歴史も古い。
江戸時代には、中仙道の脇往還として商品や物産を輸送する駄賃馬、「中馬」が繁栄した。又街道では塩の道であり文化をもたらした道でもある。
宿場は天竜川の西側段丘の上部にあり、南北に330m、南北の出入口には鍵の手構築がなされている。多くは、天保年間の二回の火事により江戸期の建物はほとんど消失してしまった。
井澤家はその数少ない現存する建物である。