天守:非現存
城郭の種類:山城
天守構造:無し
築城年:14世紀
築城主:上杉氏
春日山城は、南北朝時代に越後の国守護である上杉氏が越後府中の館の詰め城として築城された。1507年に、守護代であった、上杉謙信の父・長尾為景が守護上杉房能を追放し入城する。その後、謙信の兄が家督を継ぎ城主となる。1548年、上杉謙信(当時、長尾景虎)が兄の跡を継ぎ城主となる。その後、謙信が死に、甥で養子の景勝が会津へ転封となるまで上杉氏の居城となる。
1607年に、福島城の完成に伴い、廃城となる。
本丸
南隣の天守台と共に春日山城の「お天上」と呼ばれた場所で、標高180mある。日本海が一望出来る。
二の丸屋敷
本丸から毘沙門堂を経てお花畑に至る実城と呼ばれる郭群の東裾を取り巻くように作られた郭で、実城と共に春日山の中心地区をなしている。本丸直下にあって、本丸の警護として造られた物である。
三の丸屋敷跡
春日山城では最も良好な状態で土塁が残る。「米蔵跡」、謙信が自ら名を与えて住ませた養子「三郎景虎屋敷跡」などを総称して「さんのまる屋敷跡」と呼ぶ。入り口は東側にあり、今も道が残る。米蔵跡と名が示す通り、城機能の中核施設が於かれていたと考えられる。景虎は悲運の死を遂げた武将でしられ、今も多くのファンが訪れる。
景勝屋敷跡
「御館の乱」で景虎相手に勝利をおさめた、景勝の屋敷が在った場所。尾根を利用して段を削出し、数段で一つの屋敷が形成されている。
縦堀
山城には尾根を分断して敵の侵入を防ぐ堀切と、深い沢をつくって郭を独立させる縦堀の二つがある。春日山城では縦堀が良好な状態で残る。
護摩堂
謙信が出陣前に毘沙門堂に籠った事はよく知られているが、戦勝や息災を祈祷したのが護摩堂である。
毘沙門堂
謙信が信仰した毘沙門天の尊像が安置されている。尊像は景勝の会津移封に伴って移動されるが、昭和三年に修理の際に、破片の一部を入れこんだ御分身の像が作られ、ここに安置されている。謙信は戦争の前はこの毘沙門堂に籠もり勝利を祈願した。
直江屋敷跡
お花畑から、千貫門までの間に造られた、上下三段の郭の一つ。上杉家の重臣直江家の屋敷が在ったと伝えられている。
千貫門
春日山城の主要な門の一つ。三方が土塁と土手に囲まれて、左に二本、切通しがある。
(参照:オフィシャル案内現地観光情報等)