主祭神:大吉備津彦大神 (おおきびつひこのみこと)
創建:不明
主な神事:大祭 5月と10月の第二日曜日 鳴釜神事(金曜以外毎日)
大吉備津彦大神は、第7代天皇孝霊天皇の第3皇子で、山陽道を主に平定した四道将軍の一人。山陽道の賊徒を平定し、平和と秩序を築き吉備国の文化の礎を造ったとされている。また、この地で行われた温羅退治は「鬼退治」として、桃太郎伝説のもとになったと伝えられる。創建は不明であるが、この地を収めた大吉備津彦大神の子孫が、彼を祀り社を建立したのが始まりとされる。
温羅退治
桃太郎の話のもとと云われる温羅退治が、吉備津神社に伝わっている。それは、「その昔吉備国には、百済の皇子で温羅(うら)と言う者が人々を苦しめていた。温羅は巨大で力も強く、性格は荒々しく凶悪であった。温羅は新山に城を築き、都へ向かう船や婦女子を襲っていた。その為、人々温羅の住む城を鬼の城として恐れおののいていた。そこで朝廷は武勇んお誉れ高い五十狭芹彦命が派遣された。大軍を率いて吉備国に入り、中山に陣を敷き、片岡山に砦を築き戦いの準備を整えた。ついに決戦に及ぶが、命の放つ矢が温羅の投げる石に悉く打ち落とされしまった。考慮の末、命は一度に2本の矢を放つ強弓を用意し、同時に二本の矢を放つと、一つの矢は打ち落とされ海に落ちたが、もう一つの矢は見事に温羅の左目に突き刺さった。温羅は驚愕し雉に姿を変え山中に逃げたが、命は鷹となって追いかける。温羅は命に捕まりそうになると、今度は鯉に姿を変え、自分の左目から迸った血で川となった血吸川に逃げ込んだが、命は鵜に変化し血吸川を逃げる温羅をついに捕らえる。捕まった温羅は命に降参し、吉備冠者を命に献上した。これ以降命は吉備津彦命と呼ばれるようになる。」とある。近くには、命が放った矢と温羅が投げた岩が空中で衝突し落ちた処には矢喰宮があり、その脇には血吸川が流れ、血吸川を鯉となって逃げる温羅を噛み上げたところには鯉喰神社が現存する。また鬼の城など鬼退治の神話にまつわる遺跡や神社が多くあり、桃太郎伝説の足跡をたどることが出来る。
鳴釜神事
この神事は吉備津彦命 に祈願したことが叶えられるかどうかを釜の鳴る音で占う神事ある。この神事の起源は、吉備津彦命の温羅退治に由来する。命は温羅を捕らえた後首をはねて曝したが、温羅はその後も大声を上げて唸り続けた。命は家来に命じて犬に食わせて、髑髏にしても温羅は唸り声を上げ続けたため、ついにここ吉備津神社のお釜殿の釜の下に埋めてしまう。それでも唸り声は止まず、命が困り果てていた時、夢枕に温羅の霊が現れて『吾が妻、阿曽郷の祝の娘阿曽媛をしてミコトの釜殿の御饌を炊がめよ。もし世の中に事あれば竃の前に参り給はば幸有れば裕に鳴り禍有れば荒らかに 鳴ろう。ミコトは世を捨てて後は霊神と現れ給え。われは一の使者となって四民に賞罰を加えん』
と告げた。命はそのお告げの通りにすると、唸り声も治まり平和が訪れた。これが鳴釜神事の起源であり現在もこの神事は金曜日以外毎日行われる。
本殿・拝殿
1425年に足利義満によって再建された建築様式「比翼入母屋造」の社殿。本殿拝殿一体となった日本で唯一の様式で「吉備津造」とも呼ばれている。国宝に指定されている。
お釜殿
1612年の再建。鳴釜神事が行われる。国の重要文化財に指定されている。
廻廊
1579年再建、全長360mの廻廊である。
北随神門
室町中期に再建。国の重要文化財に指定されている。
オフィシャルホームページ http://kibitujinja.com/
(参照:オフィシャル情報)