菊屋家は大阪住吉大社の津守摂津守国量阿臣を祖とし、中世期大内氏に随身して山口に住み、同氏滅亡後は武士を捨てて町人となった。その頃、山口四十八町の惣町支配を勤め、1569年、大友宗麟の後押しで大内輝弘が山口に乱入した時は四十八町の人を連れて、高嶺城に立て籠もって防戦に功があり、毛利元就から感状をうけた。また毛利輝元が関ヶ原の戦いの直後、京都伏見から広島へ帰る路銀河不足してる事を聞いて急場の難を救った事もある。この頃までは津守姓であったがのち石川姓・菊屋姓に改めた。1604年照る下の萩入国に従い、現在地に屋敷を拝領して家をたてた。また城下の町割りに尽力し、阿古ヶ浜には藩士や足軽衆のための家を建てて住まわせたのでそれより世上阿古ヶ浜を菊ヶ浜と称するようになった。その後、菊屋家は代々大年寄格に任命され藩の御用達を勤めた。また度々、御上使の本陣を命ぜられ、その他御究場所恵民録役所等しばしば藩の御用宅に借り上げられていた。
菊屋家の建造物
国指定重要文化財建造物としては、主屋・本蔵・新蔵(金庫)・釜場・米蔵の五棟がある。主屋は家に残る古文書や言い伝えから推定すると、1604年敷地を拝領して1606年に家が出来上がり完成祝いに輝元公を招待しているので、その頃のものと思われ、現存する町屋では全国でも最古に属する建物である。
蔵その他の附属屋は屋敷構の一環として重要であり、書院・長屋門も住持の姿に復元し、大型町屋の機構を整備した。