全国有数の漆器の産地である木曾平沢は、北流する奈良井川が大きく湾曲した河川敷に発達した集落である。1598年、奈良井川の左岸にあった道が右岸に付け替えられ、この道沿いに居住することにより成立したと考えられる。この道は1602年徳川幕府より中仙道の一部として整備されている。
木曾平沢は、木曽十一宿の一つである奈良井宿の枝郷であった。近世前期に木曾物で知られた木曾の漆器は、ほとんどが奈良井宿で生産されていたが、近世後期になると平沢塗物の名で流通するほどに発展している。明治以降も技術革新によって成長を続けた。木曾平沢は現在でも日本有数の漆器の産地として知られる。
木曾平沢は伝統的建築物群保存地区に指定されており、多くの伝統的な家屋が多く残る。木曾平沢では、1749年に大火があり、復興にあたり防火対策として行われた町割りが、現在の町割りの基盤になっている。
主屋は、街路との間に若干の空地を取って配されている。中庭を介して漆塗りの作業場であるヌリグラが置かれ、その奥に離れや物置が続く。主屋を敷地間口いっぱいに建てず、隣家との間に余地を残してヌリグラへの通路とするのも、木曾平沢の町並みの特徴。
伝統的な形式の主屋は、中二階建あるいは二階建の切妻平入で、かつては板葺石置屋根でした。間口は三間を標準的規模として、通り土間に沿って、表からミセ、オカッテ、ザシキを並べる基本平面をとる。ヌリグラは、二階建、置屋根の土蔵造りで、温度と湿度を保ちやすく、通常の土蔵よりも開口部を大きく取るなど、漆器の作業に適した造りとなっている。このような作業蔵は、漆器生産で生計を立ててきた木曾平沢を特徴付ける建物といえる。
木曾平沢の伝統的建築物群保存地区は、近世後期の地割をよく残すとともに、近世以来の伝統的な町家や塗蔵などが一体となって漆器産地の町として特色ある歴史的風致をよく伝えている。