遺構:現存天守
城郭の種類:平城
天守構造:五重六層複合連結式天守
築城年:1504年(天守:1633年)
築城主:小笠原長棟
現存天守の1つで、国宝4天守の1つでもある。日本の百名城の1つにも指定されている。
築城当時は深志城と呼ばれ、信濃守護小笠原氏の支城の1つであった。後に、会の武田信玄に滅ぼされ、武田氏の松本平の拠点となる。1582年、武田氏・織田信長滅亡の後、徳川家康の配下と成った小笠原貞慶が再び入城し、松本城に改名した。
家康の関東移封により小笠原氏が下総古河へ移り、石川数正が入城。その後、大阪の陣以降は、戸田松平家による松本藩として代々続いた。
城郭の構造は典型的な平城で、本丸を中心に二の丸・三の丸と方形に整地されている。天守閣は本丸南西部に位置し、全て水堀で隔てられている。本丸を囲む石垣は天守と共に現存し、黒門、太鼓門などが復元され当時の城郭の様子を復元している。
天守閣は、5重6階の大天守を中心に、乾小天守と辰巳附櫓・月見櫓を渡櫓で連結した、複合連結式天守である。最下層には石落としを付け、窓は突上窓、破風など様々な城塞としての仕掛けが見られる。正確な建造年は諸説あるが、17世紀初頭に竣工した。高さ29.4mある。黒塗りの漆は、防火対策である。同じ使用は岡山城でも見られた。
松本城の城下町は、善光寺へと続く街道として栄え南北に発展した。街の東側は神社仏閣が占め、全ての道が、枡形、T字路を有し有事の際に役立つように配置されている。交差点は極めて少ない。武家の居住地区と商人の居住区は分けられていた。
月見櫓は、辰巳附櫓に連結する。北、東、南が物見と成って解放されている。
明治維新以降、破棄され天守は競売にかけられたが、市川量造ら地元有力者の尽力によって買い戻された。その後明治の大修理が行われた。
(参照:オフィシャル案内現地観光情報等)