江戸時代、初代銀山奉行の大久保長安が槍を持って馬に乗ったままで入ったという伝承から大久保間歩名になったと言われている。抗口付近には、明治時代の再開発の時に敷かれたトロッコの軌道の跡や削岩機による採掘の跡が残っている。
主坑道は抗口から約150m地点で落盤し、抗口から約50m地点と約110m地点で西に分岐しています。坑内の天井までの高さは最も高いところで約5mを測り、大規模な坑道であることがわかる。
抗口から約50mのところで、大久保間歩の下部に位置する金生坑道と連結する明治時代の竪抗・斜坑があり、坑道の掘削技術の移り変わりを見ることが出来る。