大浦天主堂
パリ外国宣教会フューレ神父は1863年1月22日に来崎し、南山手の現在地を入手した。同年8月に来日したプチジャン神父の協力を得て、ジラール、フューレ両神父の設計図をもとに、天草出身の棟梁が天主堂建立に着手した。
1864年に工事は竣工し、1865年に祝別式を行い、日本26聖殉教者天主堂と命名された。
建立まもない天主堂は「フランス寺」と呼ばれ、美しさとものめずらしさで付近の住民たちが多数見物に訪れていた。プティジャン神父には今でも何処かでカトリック教徒が密かに信仰を伝えているのではないかというわずかな期待があった。
1865年3月17日、浦上の住民十数名が天主堂を訪れた。そのうちの4、50歳くらいの女性がひとり、祈っていたプティジャンに近づき、「私共は神父様と同じ心であります」とささやき、自分たちがカトリック教徒であることを告白した。彼らは聖母像があること、神父が独身であることから間違いなくカトリックの教会であると確信し、自分たちが迫害に耐えながらカトリックの信仰を代々守り続けてきたいわゆる隠れキリシタンである事実を話し、プティジャン神父を喜ばせた。
その後、プティジャン神父は密かに浦上や五島などに布教を兼ねて隠れた信者の発見に努め、浦上だけでなく長崎周辺の各地で多くのカトリック教徒が秘密裏に信仰を守り続けていたことがわかった。この「信徒発見」のニュースはやがて当時の教皇ピオ9世のもとにもたらされた。教皇は感激して、これを「東洋の奇蹟」と呼んだという。
天主堂は殉教地である西坂の聖地に向けて建てられている。由来となった日本26殉教者とは、豊臣秀吉のキリシタン禁教令によって捕縛され、1597年に長崎の西坂の丘で処刑され、カソリック全教会信徒の尊崇を受けることになった日本人20名、外国人6名の聖殉教者たちである。
1879年に、外壁をレンガ造りにし、間口を左右に1間つずつ広げ、奥行きも深くし当初の2倍の大きさに拡張、ゴシック建築の様式を取るようになった。
本堂は、我が国洋風建築輸入の初頭を飾る代表的なものである。