平和公園は、原爆の実相を訴えると共に、世界平和と文化交流のための記念施設として整備を行い、次代を担う子供たちの貴重な平和学習の拠点として、また祈りと願いに溢れたやすらぎの場として多くの人々に利用されている。
長崎刑務所浦上刑務所支所跡
長崎刑務所浦上刑務所支所は、20,000平方メートル、庁舎面積約13,000平方メートルで、爆心地よりも北へ最短約100m、最長約350mの地点にあり、爆心地に最も近い公共の建物であった。
1945年8月9日、午前11時2分、一発のプルトニウム型原子爆弾の炸裂により、職員18名、官舎居住者35名、収容者81名を含む計134名全員が即死した。周囲の高さ4m、厚さ0.25mの鉄筋コンクリート塀は、ほとんど根元から倒壊し、木造庁舎も炊事場の煙突1本を残して粉砕全焼した。
松山町防空壕群跡
原爆投下当時、浦上刑務支所があった、この平和公園の周囲の斜面には多くの家庭用や町内用の横穴式の防空壕が作られてた。一発の原子爆弾で、爆心地から半径500m以内にいた殆ど即死したが、これらの防空壕の中でわずかながら生き残った人もいた。しかし、被爆したほとんどの人たちは、火傷や放射線など重症を負い、逃げ込んだ防空壕の中で苦しみながら、治療も受けられないまま、次々に死んでいきました。
終戦後、爆心地から近い防空壕にまつわる被爆の状況を、アメリカ軍は調査し、防空壕内部の形状、その中ノ生存者と死亡者の位置を詳しく記録し、この調査内容を大戦後の核戦争に備えての核シェルターをつくり時の参考にしたと言われる。