年月日:1582年4月から6月4日
主戦場:備中高松城
交戦勢力:織田軍 VS 毛利軍
兵数:織田方羽柴軍(3万) 毛利軍籠城側(5千)援軍(4万)
結果:毛利軍の講話と清水宗治の自刃
備中高松城の戦いは1582年織田信長が本能寺の変で討ち死にするまで行われた攻城戦。
高松城の築城は不明である。この地域は石は豊富に取れるが、高松城は石垣を用いていない。周囲を巨大な湿地帯に囲まれた城で、攻城兵器、騎馬、銃が一切使用できない攻略困難な城であった。1575年、当時中国で勢力を伸ばしていた毛利氏の勢力下に入ると、清水宗治が城主となる。高松城は毛利の中国と織田信長の畿内の境界線であり、毛利方の防衛の要の城であった。
1578年、織田信長は中国方面軍を編成、秀吉を軍団司令官に任じ中国地方の制圧を命じる。1581年までに秀吉は、姫路城を拠点に畿内西部の制圧に成功し、備中の宇喜多家を信長側に引き入れる。これにより、中国方面の橋頭堡を得る事になる。
1582年、織田信長軍、中国方面軍団長の豊臣秀吉(当時羽柴秀吉)が、2万の兵を持ってこの城の攻略を開始する。また宇喜多家も1万の兵を率いて参戦する。
守る清水宗治は兵士3千。まず秀吉は高松城の支城を攻略し高松城を孤立化させる。そして秀吉は2度の大攻勢をかけるが落とすことが出来なかった。しかも、毛利方の援軍4万が高松に向かっているとの情報が入った。同時に、甲斐の武田家を滅ぼした信長が兵を再編し中国へ向かっているとの知らせも入った。秀吉は、全面の毛利と後背の信長という2つの脅威にさらされ早期攻略を迫られる。 秀吉は信長到着までに決着を付けなければ成らなくなった。そこで、当時竹中半兵衛に代わって、秀吉の軍師となっていた黒田官兵衛の足守川をせき止めて行う、水攻めの構想を採用する。
この時、信長は明智光秀にも秀吉の援軍として参戦する様に命じる。これが歴史を大きく変える事となった。
秀吉はすぐに足守川をせき止める長さ4キロ高さ8m、幅24mの巨大な堤防を築き始める。この時にかかった費用は6万3千石かかった。とてつもなく費用の高いダムは、5月8日に建設が開始され、僅か12日後の5月20日には完成していた。当時梅雨の真っ最中でもあり僅か数日で高松城は水没してしまう。この時人造の湖は200ヘクタールの広さにも及んだ。これが有名な「秀吉の水攻め」となる。
完全に湖に囲まれてしまった高松城は援軍も入る事は適わず完全に孤立してしまう。到達した毛利の援軍もこの湖の前には為す術が無かった。
毛利方は軍僧の安国寺恵瓊を黒田官兵衛のもとに派遣し、「五国割譲と城兵の生命保全」の条件で和議を提示した。しかし、秀吉はこれを拒否して「五国割譲と城主清水宗治の切腹」を要求したため、交渉はいったん物別れに終わった。
秀吉の任務は終了し、後は信長の到達を待つだけであった。しかしこの時すでに秀吉の運命を加速させる出来事が京都で起きていた。
6月3日夜、秀吉の陣営に一人の密偵が捕まる。密偵は明智光秀の密書を抱えていた。その内容は、秀吉の主・織田信長が本能寺の変で明智光秀によって討ち死にしていた事であった。秀吉はしばらく呆然と立ちすくむも、黒田官兵衛は、秀吉に天下を取る好機である事を知らせる。
秀吉はすぐに、毛利方との講和を完了させ、京都へと向かう準備を行う。清水宗治は切腹を承諾し、秀吉によって賄われた酒で城内の部下と最後の宴を行い、翌日舟の上で切腹を果たした。
秀吉は、戦後処理を済ませるとすぐに機内へと向かい信長の弔い合戦の準備をする。これが、世に言う中国の大返しとなる。この時の決断が、秀吉を天下人へと誘った。
宗治 辞世の句
「浮世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して」
(参照:オフィシャル案内現地観光情報等)