築城:1332年 越智邦澄
天守構造:連立式3重3階地下1階
高取に初めて城が築かれたのは南北朝期と言われる。奈良から吉野へと交通の要衝として、芋峠を押さえる重要な役割を保っていた。越智氏が拠点としていたが、その当時は現在の構造ではなく支城の一つであった。1580年に筒井順慶が郡山城の詰の城として改修を初め、大和に移ってきた豊臣秀長が、過信の本多利久に大改修を命じた。現在の構造はこの時の物。その後も江戸時代1640年に植村氏が入城し、改修を続けた。この城は、修理などをするのに幕府に届出をしなくても自由に改修できる特別な待遇を持っていた。その為に、山城には珍しい見事な石垣を誇る堅固な城に成長した。現在も多くの石垣や堀などの遺構が良い状態で残っている。
猿石は、本来は石垣の為に運ばれたが、その愛くるしい見た目で石垣には使われずにこの場所におかれた。飛鳥時代の製作と考えられる。
本丸部分の大きさは東西に75メートル×南北に60メートル、高さは約8メートルの石垣に囲まれている。南西には3重3階の「小天守」があり、大きさは東西12メートル×南北13メートルある。また東側には2重3階の「硝煙御櫓」があり、虎口付近、「具足櫓」対岸には平櫓の「鉛御櫓」がある。このように本丸は、1基の天守と1基の小天守、3基の櫓が多門櫓で連結された連立式天守の縄張りであった。
この5基の櫓で囲まれた本丸部分には、「本丸大広間」という場所に礎石が数カ所あり1棟の御殿があったと考えられている。また、この御殿跡周辺には東西約5メートル×南北約3メートルの「楠井戸」がある。高取城の井戸は多数見受けられるがその大半は、雨水や湧水を集水したもので、地下の水脈まで到達した井戸はほとんどない。
天守の大きさは東西に約16メートル、南北に約14メートルの規模で「御天守」と呼ばれている。外観は『和州高取城山之絵図』によると、1重目は千鳥破風、2重目の中央に出窓形式、3重目には軒唐破風があり、外壁は白漆喰総塗籠であったようで、外観3重、地下1階の天守が推定されている。また、天守台の東側には付櫓台が属しており、2重の「具足櫓」が建っていたと考えられている。