佐賀藩は、1641年以来、幕命によって福岡藩と1年交代で長崎警備の任務についていた。その装備は、諸外国と比べると薄弱であった。10代藩主鍋島直正は、防衛の任務遂行を懸念し幕府にその旨を献策したが受け入れられなかった。かねてから、西洋文化に関心を示していた直正は、1850年この地に、藩独自で洋式反射炉を築造し、築地大砲鋳造所を設け、長崎台場の防衛用大砲を製造した。1853年、その威力を幕府から認められ、大砲鋳造依頼があったので、多布施に新たに反射炉を築き、公儀石火矢鋳立所を設置し、幕府向けの大砲を製造した。