湯浅は、古来より熊野参詣において上皇や貴族が滞在する宿所であり、平安時代末期から勢力を誇った土豪の湯浅氏の本拠地として栄えた。
中世に入り、熊野信仰が武士や庶民の間にも広まると「蟻の熊野詣」と表現されるほど多くの人々が熊野三山へ赴くようになり、室町時代後半には、東部の丘陵地を通っていた参詣の道が西方の海寄りに移るとともに町場が発達しました。16世紀末期頃になると、熊野街道の町場の西方に市街地が開発され、江戸時代1661年には、さらに西方に臨海市街地域が拡大されている。
近世の湯浅は、藩内有数の商工業都市として発展した。漁業や漁網製造なども盛んで、近海から遠く九州や関東、北海道まで漁場を開拓しているが、最も特徴的なものは、鎌倉時代に伝来した金山寺味噌の製造過程から生まれたといわれる醤油醸造である。紀州藩の手厚い保護を受けて藩外販売網が拡張され、19世紀初期には92軒もの醤油屋が営業していたといわれるほど、代表的な産業となりました。
明治維新後、藩の保護を解かれたことによって醤油醸造家は大幅に減少した。近代においては有田郡の経済と行政の中心としてさかえ、現在も昔の趣を多く残す家が建ち並び、伝統的建造物群保存地区に指定されている。