境内を少し上がると後醍醐天皇の陵があり、足利尊氏に都を追われた天皇に都を憧れつつ4年間吉野山で過ごしたが、ついに帰る事無く1339年に崩御された。
天皇の意思により京都を望んで葬られた、日本唯一の北面の陵である。
専横の北条幕府を倒し、建武中興を成し遂げた後醍醐天皇は、足利氏との争いの為に京都を逃れ、吉野山行幸以来4年間、吉野の行宮ですごす。1339年に病床に就き「身は仮へ南山の苔に埋まるとも魂は常に北闕(京都)の天を望まん」と都を憧れ、ついに崩御されるた。天皇の遺骸をそのまま北向きに葬ったのが塔尾陵で、次帝後村上天皇の1347年12月に楠正行(楠正成の子)の一族郎党143人が四条瞼(大阪府)の決戦に向うにあたり、吉野の皇居に天に詣でて髻を切って仏前に奉納、過去帳に姓名を記し、最後に正行は鏃をもって、御堂の扉に
「かへらじとかねておもうへば掛弓なきかずにいる名をぞといむる」と辞世の句を残して四条瞼に向うが破れ、弟の正時と共に再期を迎える。
現在の建物は約350年前の再建で、正行の歌をとどめた