滝沢屋のあった下町は本町とも言われ、楢下宿では中心的な町並みで、本陣の塩屋を始め、脇本陣、準本陣級の庄内屋、秋田屋、滝沢屋などが建ち並んでいた。庄内屋、滝沢屋は依然としてその旧態をとどめ、貴重な遺構として有形文化財に指定されている。
滝沢屋は現在の位置に移築され、当時の時代に近い形で復元されている。
滝沢屋は広く武士層を対象とした宿泊、休息のための施設であった。広間型三間取りの上手に当って、上、下の二座敷を付け加えた五間取りで、上の座敷を裏手に張り出された曲がり家となる。
軒を「せがい造り」にし、軒下を土庇式の「こまい」とし、表の開口部に古式「しとみ」を用いている。平入り、直ご家形式の主屋に対し、上屋敷の部分を奥方向に突出させて曲がり家とするのは、この地の上層民家に特徴的にみられる形である。
この家の建築年代は不詳であるが、1757年の洪水後に建てられたもので、その架構、間仕切り手法などからみて妬く200年前後経た古民家推測される。
1761年、幕府の巡見使三人を楢下に迎えたとき、筆頭の柳原左兵衛は本陣の塩屋に、久松は滝沢屋に宿泊したが、本陣と称している。この事から1761年にはすでに滝沢屋は再建されていた。